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池田大作に屈して御遺命破壊に加担した宗門

顕正会員
顕正会員

宗門は池田大作の圧力に屈して「国立戒壇」の御遺命を捨て奉ってしまったんですよ!

法華講員
法華講員

なにバカなこと言ってるんだ。そんなのは嘘に決まっている。猊下や御住職が、池田大作なんかに屈するわけがないだろう。

強大な権力で宗門を圧伏した池田大作

 昭和30年代後半以降、800万学会員を率いて、政治権力たる公明党を配下に置いていた池田大作は、まさに宗門における最高権力者でした池田大作はこの強大な権力を以って宗門を圧伏し、「正本堂」の誑惑の完遂を目論んだのです

 今回は、池田大作が宗門を圧伏していたことを裏付ける象徴的な出来事として、①「訓諭」(昭和38年7月15日)②「四国大乗寺事件③「妙光寺事件の3つを紹介したいと思います。

【創価学会を批判すると無間地獄?】衝撃の「訓諭」

 「訓諭」は、「一宗を教導するために管長が公布する最高の指南」とされているものです。昭和38年7月15日、細井管長は全国の法華講員に対し、この「訓諭」を発布しましたが、その結文に驚くべき内容があるのです。

 「此の清浄無比にして護惜建立の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見(びゅうけん)を懐き、謗言(ぼうげん)を(ほしいまま)にする者ありとせば、其籍(そのせき)、宗の内外に有るを問わず、全て是れ広布の浄業を阻礙する大僻見(だいびゃくけん)の人、罪を無間(むげん)に開く者と謂ふべし

 庶幾(こいねがわ)くは、全国法華講員軽挙妄動、宗徒の体面を損するが如きこと無く、宜しく創価学会員至心の求道精神を会了得解(えりょうとくげ)し、亦其を尊崇亀鑑(そんそうきかん)とするに(やぶさ)かならず、以て歩を一にして仏国土建設に、共に撓みなき前進を遂げられんことを」

 難しい言葉が並べられていますが、この「訓諭」をわかりやすく言えば、創価学会を批判する者は無間地獄に堕ちる。法華講員は軽挙妄動することなく、学会の精神をよくつかみ鑑(かがみ)とせよということです。

 最高権威の貫首に、最高の指南を以って、自らにとって都合の良いトンデモ論を公言せしめる…当時の池田大作の権力がいかに強大なものであったかがよくわかります

 その後、池田大作は、昭和39年4月1日、「法華講総講頭」に任命され、これで名実共に日蓮正宗全信徒の上に君臨したのです。

法華講員
法華講員

猊下は現時における大聖人。だから猊下は絶対に正しい。猊下が間違ったことをするなんてあり得ない。

顕正会員
顕正会員

それなら今もあなたはこの「訓諭」に従わないといけませんね。

法華講員
法華講員

と、当時は正しかったけれど、今では間違いだから…

顕正会員
顕正会員

そういうのを「ご都合主義」って言うのですよ!

【学会に背く者は猊下に背く者?】四国大乗寺事件

 昭和37・38年当時、宗門の行政機関である宗務院は、完全に学会の下請け機関になり下がっていました。情けない限りです。池田大作は、気にくわない末寺住職に無理難題をふっかけては宗務院に通報し、これを処分させるという横暴極まりない行為に及んでいました。ここでは四国大乗寺事件の例を挙げます。

 昭和三十八年十一月、四国大乗寺に突如学会大幹部の原島・小泉等数名が乗り込んできた。これは当時、四国の学会組織内で重大な内紛があり、その鎮圧のために大幹部が赴いたものであるが、ついでに地元の寺院に立ち寄り、学会の威を地元の会員に示さんと、住職をつるし上げたのである。原島らは秋山慈本住職に対し「住職は学会員と法華講員に対しどんな信念で接しているか」と質問し、住職が「学会員も法華講員も同じ御本尊の信者であるから、平等に扱い差別はつけぬ」と答えると、何が気にくわぬか、それから揚げ足とりの下劣な罵倒をくりかえし、捨てぜりふを残して帰った。

 果せるかな数日後、秋山住職に対して宗務院から呼び出しがあり、理由もなく住職転任の処分が一方的に申し下された。秋山師は学会のあまりの横暴と、宗務院の主体性のなさに悲憤し、転任を拒否、ついに宗門を離脱してしまった

 この事件は、学会に逆らうことの恐ろしさを、全僧侶に植えつけた。まさに学会は見せしめにこれを行ったのである。以来「物云えばくちびる寒し」の風潮が宗門を覆い、また学会にへつらっていれば経済的には裕福な暮しが出来ることから、すべての僧侶が学会に従うようになったのである。

顕正会「試練と忍従」の歴史
顕正会員
顕正会員

当時は、学会に従わぬ者には次々と「猊下に背く者」の烙印が押されてしまいました。まさに戦時中の「軍に背く者は天皇に背く者」を彷彿とさせますね。

法華講員
法華講員

こんな事件があったなんて知らなかった…

柿沼総監が辞任した「妙光寺事件」

 池田大作の権力に宗門が圧伏されたことを物語る事件が、妙光寺事件です。この事件の詳細は、顕正新聞「御遺命守護」特集号5(令和元年9月5日号)に記載されているので引用します。

 昭和四十年十月、正本堂の御供養・三百五十億円を集めることに成功した池田大作は、その翌月、正本堂建設委員会を東京品川の妙光寺で開いた。この委員会には、細井日達以下宗門の首脳僧侶が列席した。

 この席で池田大作は、管長に次ぐ第二位の地位にあり、妙光寺の住職でもあった柿沼広澄・宗務院総監に対し、なんと二時間にわたり罵倒を繰り返した。よくぞこれほど罵詈雑言が続くものよと思うぐらい、二時間も罵倒した。居並ぶ僧侶はみな下を向いたまま。そして池田はついに委員会を流会させてしまったのです。

 罵倒の理由は

 宗門は自分を法華講総講頭に任命しておきながら、待遇も決めず、軽視している」「きょうの椅子席の並べ方も気にくわぬ」「もっと尊敬をせよ

 というところにあった。

 この面罵を受けてその五日後、柿沼広澄は辞任した

 一方、宗門においてはその二日後、臨時宗会を開いて細井日達管長も臨席し、「法華講総講頭の待遇」について、次のような議決をしている。

 ①「法華講総講頭は仏法守護の棟梁として、僧俗挙って尊敬すること」

 ②「行列の場合は仏法守護のため先陣をなす」

 ③「法要以外の席は猊下に並ぶ」

 ④「末寺へ来寺の通知があった場合は、住職は出迎えること

 ⑤「その他のことは、これに準じて尊敬のまことを尽くして待遇すること

 以上の五項目が決議されたのです。

 前々から池田大作にへつらっていた阿部日顕などは、京都平安寺の住職で教学部長だったころ、平安寺前の大通りを池田大作が車で通ることを知るや、門前に立って待ち、頭を下げていたというまた池田が平安寺に来るときには、門前から本堂までの道に、赤絨毯を敷いて迎えたという

 このように宗門の全僧侶は、池田大作にひれ伏してしまったのです

 おかしいでしょう。御遺命を破壊せんとする悪人を「仏法守護の棟梁」と崇めるとは、まさに魔を仏と呼ぶに等しい滑稽さですよ。

 しかしこれが第六天の魔王その身に入った者の威力なのです。

 やがて池田大作は、御本仏の御遺命たる国立戒壇を否定するために、偽戒壇・正本堂を建てたそしてこれを時の貫首・細井日達に「御遺命の戒壇である」と言わせた

顕正新聞「御遺命守護」特集号5
第1回正本堂建設委員会で、曖昧な説法をする細井日達。笑顔で聞く池田大作と、苦々しげな柿沼広澄総監(右)※顕正会公式サイトから引用

 宗門ナンバー2の総監を面罵するという池田大作の暴挙を、居並ぶ僧侶は誰も注意できず、それどころか総監辞任後の臨時宗会にて、池田のことを「尊敬のまことを尽くして待遇する」と宗門として決定したのです。なんとも情けないですね。

法華講員
法華講員

こんな池田大作の横暴が許されるはずがない!

顕正会員
顕正会員

そうですよね。けれど宗門は、池田大作に注意するどころか逆に媚びたのです。これでもまだ宗門が池田大作の圧力に屈したというのが嘘と言えますか?

法華講員
法華講員

うーむ…たしかに圧力に屈してしまったのかもしれないなぁ…

まとめ

 このように池田大作は強大な権力で宗門を圧伏し、これを以って「正本堂」の誑惑という御遺命破壊を強力に推進していきました。そして宗門はこれに異議を唱えることなく、池田に(へつら)い、むしろ迎合するように加担してしまったのです

 今、宗門僧侶は「池田大作の圧力に屈してなどいない!」と必死にうそぶいているようですが、これが嘘であることはもう明々白々でしょう。

 しかし、いかに池田大作の権力が強大であったとはいえ、「国立戒壇」否定という御遺命破壊に加担することは絶対に許されません。日興上人が門下一同に遺し給うた二十六箇条にわたる遺誡置文(ゆいかいおきぶみ)の中には、

衆義たりとも仏法に相違あらば、貫首之くべき事

 とあります。たとえ大衆の意見であっても、それが仏法に相違する時は、貫首はこれを摧くべきであると仰せられているのです。

 それにもかかわらず、時の貫首・細井日達は、池田大作の権力・金力に篭絡され、ついに御遺命の国立戒壇を否定してしまいました。だから細井日達は、大事の「御相承」もなし得ずに急死して、臨終に堕獄の相を現じたのです

 宗門は、御遺命違背の大罪を大聖人様に謝し奉り、真摯に出なおさなければいけません。

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