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顕正会の歴史

※顕正会公式サイト「顕正会の足跡」より転載。

※発足から今日までの会員総数の増加状況(グラフ)はこちらをご覧ください。

昭和32年8月3日

総本山第65世・日淳上人の承認のもと、妙信講(顕正会の前身)発足。380名の同志が馳せ参じる。

昭和40年

創価学会第3代会長・池田大作の政治野心と名利から、「正本堂」を「御遺命の戒壇」とする誑惑が始まる。日蓮正宗における最高権威の「法主」を始め、宗門高僧もこれに阿諛迎合し、誑惑の大合唱が宗門を覆う。

昭和45年3月

浅井昭衞会長、「学会の強大を恐れてこの大悪を黙過したら、これこそ『大聖人様に対し奉る最大の不忠』」との一念で、御遺命守護の戦いに立つ。「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を宗務役僧ならびに池田大作以下、学会首脳に送付。

昭和45年5月3日

第66世・細井日達、創価学会本部総会において日蓮大聖人の御遺命たる「国立戒壇」の永久放棄を公式に宣言。

昭和45年5月3日、学会本部総会 ※顕正会公式サイトから引用

昭和45年9月11日

浅井会長、創価学会代表との間で確認書を作り、御遺命違背を訂正せしめる。

昭和46年11月15日

浅井会長、裏では依然として誑惑を強調する池田大作に対し、「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」を送付。

昭和47年4月28日

細井日達、「正本堂」の意義についての「訓諭」を発布。「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と、偽戒壇・正本堂が「御遺命の戒壇」に当たる旨を指南。

昭和47年7月6日

浅井会長、細井日達と論判。細井日達に訓諭の内容を打ち消す解釈文を宗門機関紙「大日蓮」に掲載することを約束せしめる。

細井管長が手渡した「訓諭」の訂正文 ※顕正会公式サイトから引用

昭和47年9月

浅井会長、創価学会代表と正本堂の意義につき7回にわたり論判。激論のすえ、創価学会に正本堂の意義を訂正する文を聖教新聞紙上に掲載することを約束せしめる。

昭和47年10月3日

創価学会、聖教新聞紙上に正本堂の意義を訂正する文を掲載。

聖教新聞に掲載された誑惑の「訂正文」※顕正会公式サイトから引用

昭和49年5月

浅井会長、「国立戒壇を捨てなければ登山を許可しない」旨の宗務院からの通告を受け、「御遺命守護の御奉公は未だ終わらず、徹底してその悪を断たねばならぬ」として、学会・宗門への諫暁を強める。

昭和49年8月12日

日蓮大聖人の御遺命の正義を叫ぶ妙信講を抹殺せんと、理不尽なる解散処分が下る。講員数12,000名。処分理由は「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和47年4月28日付『訓諭』に対して異議を唱えたゆえ」。

解散処分の「宣告書」 ※顕正会公式サイトから引用

昭和49年

浅井会長、妙信講の潰滅を期する学会・宗門あげての弾圧のなか、遥拝勤行で死身弘法を開始。時同じく、学会・宗門に亀裂が生じ、深刻な抗争に発展。

昭和54年7月22日

細井日達、大事の御相承をなし得ず、急死。阿部信雄教学部長(当時)、自己申告で第67世に就任し「日顕」と称す。 学会と宗門の癒着が深まる。

昭和57年10月9日

浅井会長、日本武道館で1万人の大総会を開き、妙信講の名称を「日蓮正宗顕正会」に改称

武道館大総会 ※顕正会公式サイトから引用

昭和59年3月

学会・宗門、「大石寺開創700年記念準備会議」にて、昭和65年(平成2年)に大石寺を「本門寺」に改称せんとの陰謀を企てる。

昭和63年8月

浅井会長、8月度総幹部会において「顕正会が日蓮正宗にある限り、このような“誑惑の完結”は断じて許さない。いや、大聖人様がお許しにならない」と「本門寺改称」の陰謀を粉砕する覚悟を表明。

平成2年4月

顕正会の死身弘法、20万に達す。 浅井会長、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」の一書を認め、阿部日顕に送付。阿部日顕が曽て著した「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」の邪義を一々に挙げ、その誑惑の根を完全に断ち切り、戒壇の大御本尊を清浄の御宝蔵に遷座し奉り、誑惑の正本堂の撤去を求める。

平成2年7月8日

浅井会長、横浜アリーナで2万人の大総会を開き、「本門寺改称」陰謀粉砕の決死の決意を表明。「もし池田大作が本門寺改称を強行するならば、そのとき、全顕正会員はこぞって大石寺に総登山すべきである。二十万顕正会員が、戒壇の大御本尊の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋めつくし、信心の力を以て、本門寺改称を断固粉砕しようではないか」と。

アリーナ大総会 ※顕正会公式サイトから引用

平成2年10月12日

「本門寺改称」が公表される予定であった「大石寺開創七百年慶讃法要」で、阿部日顕が池田大作を裏切り、「大本門寺の寺号公称は広宣流布の未来にある」旨を宣言。「本門寺改称」の陰謀は潰え去る。 同時に、学会と宗門の「修羅と悪竜の合戦」そのままの醜悪な大抗争が始まる。

平成9年6月

顕正会の死身弘法、50万に達す。

平成9年7月16日

浅井会長、「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」と題する諫暁書を以て、第1次「一国諫暁」を開始。 それに伴い「日蓮正宗顕正会」の名称を「冨士大石寺顕正会」に改称。正系門家の源流たる日興上人・日目上人の清き流れを表す「富士大石寺」を冠して立つ。

平成10年4月5日

「本門戒壇の大御本尊」が誑惑不浄の正本堂から元の奉安殿に還御あそばす。

平成10年4月10日

浅井会長、「御遺命守護完結奉告式」を奉修。「大聖人様 ──。本門戒壇の大御本尊が恐れ多くも誑惑不浄の正本堂に居えられ奉ってより今日まで、実に二十六年の長き歳月が流れました。しかるところ、嗚呼ついに、本年四月五日の午後四時、大御本尊は、清浄なる奉安殿に還御あそばされました」と奉告。

平成10年7月

偽戒壇・正本堂、轟音とともに打ち砕かれ、醜悪な姿を地上から消し去る。

わずか26年で崩壊した正本堂 ※顕正会公式サイトから引用

平成12年11月

新本部会館(埼玉県さいたま市)が竣工。

平成15年11月

顕正会の死身弘法、100万に達す。

平成16年4月28日

浅井会長、「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」と題する諫暁書を以て、第2次「一国諫暁」を開始。 同書の冒頭に「日本は今、亡国の前夜を迎えている。その亡国とは、どのような災難によってもたらされるかといえば ──まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆と他国侵逼が起こるのである」と記す。

平成17年3月

浅井会長、日蓮大聖人の御遺命たる「国立戒壇」を執拗に否定する阿部日顕に、顕正会の解散をかけて公場対決を求める書面を送付。

日顕への対決申し入れを報ずる顕正新聞 ※顕正会公式サイトから引用

平成17年8月28日

浅井会長、重ねての対決申し入れを逃避した阿部日顕に「最後に申すべき事」と題する一書を送付し、阿部日顕の三大謗法に止めを刺す。

平成17年11月7日

阿部日顕が導師を務め御開扉を行おうとした際、須弥壇の大扉が開かず、御開扉が中止となる。

平成17年12月15日

阿部日顕、猊座を退く。

平成23年3月11日

「大地動乱の時代」の幕開けたる、日本の観測史上最大の東日本大震災が発生。

平成23年11月

顕正会の死身弘法、150万に達す。

平成24年9月

「婦人部大会」をさいたまスーパーアリーナにて開催、2万人が参加。

婦人部大会 ※顕正会公式サイトから引用

平成25年11月

「女子部大会」をさいたまスーパーアリーナにて開催、3万5千人が参加。

女子部大会 ※顕正会公式サイトから引用

平成26年9月

「男子部大会」をさいたまスーパーアリーナにて開催、5万人が参加。

男子部大会 ※顕正会公式サイトから引用

平成26年11月7日

創価学会、教義条項を改変し、「弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」と明言。大聖人出世の御本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を捨て奉る「極限の大謗法」を犯す。

「戒壇の大御本尊放棄」を報ずる聖教新聞 ※顕正会公式サイトから引用

平成27年1月

浅井会長、「学会員を救う特集号」を発刊。以後、正義にめざめる学会員が続出。

平成27年11月

「南東北大会」をセキスイハイムスーパーアリーナにて開催、1万2千人が参加。

平成28年9月

「九州大会」を別府国際コンベンションセンターにて開催、1万1千人が参加。

平成28年12月

「近畿大会」をワールド記念ホールにて開催、1万1千余人が参加。

平成29年4月

「中部大会」を静岡エコパアリーナにて開催、1万余人が参加。

平成29年12月

「中国・四国大会」を福山ビッグローズにて開催、1万人が参加。

平成30年3月

「北関東大会」をALSOKぐんまアリーナにて開催、1万2千余人が参加。

平成30年5月

「新潟大会」を朱鷺メッセにて開催、2万人が参加。

平成30年7月

顕正会の死身弘法、200万に達す。

二百万達成記念総幹部会 ※顕正会公式サイトから引用

令和元年6月

「北東北大会」を岩手産業文化センターにて開催、1万2千余人が参加。

令和元年9月

阿部日顕 命終

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